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​地域紹介
​ 小泉自治会と地域全般についてお話いたします。小泉自治会エリアは上田市の中で西の方、千曲川西北部を川西地域と呼びますが、その川西地域の中で最も規模が大きい自治会になります。

 小泉地域はかつての日向小泉村と町小泉村が明治7年に小泉村として合併したことが基盤になります。やがて明治22年に福田村と吉田村と合併して泉田村になり、昭和31年に上田市に合併されますが、その翌年に室賀村と浦里村が合併して川西村になる際、旧泉田村の中の半過地区を除く大字小泉のエリアが川西村に編入されます。川西村は昭和48年に上田市に合併吸収されますが、現在の小泉自治会はちょうど川西村に編入された大字小泉の範囲に相当し、昭和63年に室賀小学校との統合と浦里小学校の一部の編入により、川西小学校が発足したことで廃校になった旧小泉小学校の通学区になります。

 小泉自治会の区域は住所として上田市小泉1番地から2289番地までのエリアです。この中で一戸建て583戸、集合住宅233戸の皆さんが暮らしておられます。地域は、日向、和合、小泉町、町小泉、横山の5区から成り、それぞれに区長をおいて互いに連携しています。

​ 小泉自治会は通常、自治会長と副自治会長および会計の自治会3役、それと各区から選出された代議員19名から成る代議員会によって運営されています。

​ 上田市消防団第20分団は小泉自治会地域が管轄になります。1つの自治会に1つの消防団があるのは、特殊な地域である菅平を除けば上田市内では唯一であり、勤勉で正義感あふれる皆さんは自治会とも互いに綿密な連携を保って、地域の安心安全を支えるために日々活動しています。

​小泉の歴史と文化遺産
 古くは浦野川流域一帯を浦野と総称していたようです。755年に編纂された万葉集の巻14の中に「かのころと ねずやなりなむ はたすすき うらのの山に 月かたよるも」という歌があり、うらのの山というのは浦野のことであるとされています。その後1186年の吾妻鑑に、日吉社領浦野荘、一条大納言家頌小泉荘という記載があり、この頃にはすでに浦野川流域の中でも小泉地域が区別されていたことがわかります。官道の一つである東山道が青木村境の保福地峠で山越えして平地に降り、浦野宿を経て今の町小泉の旧街道を通り上田から佐久へと続いていくわけですが、東には北信へと続く北国街道もあり、小泉一帯はこの地域の交通の要所として古くから栄えていたと考えられます。その後の歴史的な歩みを2つの小泉の文化財をもとに見ていきましょう。
 まず一つは高仙寺です。高仙寺は真言宗の寺院で、大同元年(806)に大日堂を創建したのが始まりと言われています。天文11年(1542)に茅葺に改めたと伝えられ、同16年の武田・上杉氏の間で争われた上田原の戦火で大半の堂宇を焼失しましたが、大日堂だけは焼け残りました。
 大日堂は大規模な五間堂で、屋根は宝形作り(ほうぎょうづくり)となっています。細部の様式的特徴から室町時代後期の建設と考えられており、また中世の大規模御堂建築の遺構として貴重な存在として、昭和56年(1981)に上田市指定有形文化財に指定されています。黒門から大日堂まで約330mの参道には推定樹齢300年、樹高15m、幹周2~3m程の杉の大木が並木を形成し、貴重なことから昭和54年(1979)に上田市指定天然記念物に指定されています。
 千曲川西岸部、青木村の入り口あたりまで一帯を治めていたと考えられている小泉氏に関しては現存する記録が少ないことから不明なことが多いのですが、源満快の子孫であり、清和源氏の一派であるとされています。鎌倉時代初期に打倒北条氏を目指した泉親衡の乱を起こして失敗し、当主の親衡が出奔したとされますがはっきりした記録はありません。泉親衡の乱から26年後の延応元年(1239)時の執権である北条泰時が「小泉荘室賀郷」の水田を善光寺に寄進した記録が残っています。室町時代には小泉荘の地頭として権勢を振るい、戦国時代には真田昌幸の上田城築城まで勢力を伸ばしていたことが考えられ、上田城址公園の小泉曲輪(市民体育館テニスコート周辺)はその遺構となっています。
 中世の文献には泉小二郎親衛という表記があることなどから、民話「小泉小太郎伝説」は上小地方では泉親衡がモデルではないかという説があり、親衡は小泉氏の祖先ではないかと考えられています。小泉氏は戦国時代では村上氏に属していましたが、武田信玄の侵略を受けて村上義清が逃亡したことでその軍門に下り、真田氏の家臣となりましたが、真田信之の松代転封後は小泉の地に残り下野したと考えられています。
                「小泉小太郎」リンク集

電子紙芝居 「小泉小太郎物語」
https://www.youtube.com/watch?v=TetXtnzoq_M
                                   
小泉小太郎:上田地域の民話

https://www.youtube.com/watch?v=Fh7hDDPVolk&t=10s
         
民話「小泉小太郎」_Folktale of Ueda " Koizuimi Kotaro" Indonesian subtitle

https://www.youtube.com/watch?v=v02ckBdYt8I                                                 
小泉小太郎伝説

https://www.youtube.com/watch?v=6VwCOdTqmF4
 また、高仙寺には古代の貴重な資料であるシナノイルカの化石が保存されています。県の天然記念物に指定されているこの化石は、高仙寺の裏山200mほど入った蛇川原沢のおよそ1500万年前の地層から発見されました。このイルカの化石は、歯が極めて小さく数が多いこと、手が極めて長いことを特徴としていて、古代イルカの様子を知る貴重な資料となっています。現在は本堂とは別棟の博物館に保存されており、お寺に直接見学を申し込むことでいつでも見ることができます。見学料は大人¥100小・中学生¥50幼児は無料となっております。
  
 もうひとつ、小泉の信仰の拠点である弓﨑神社ですが、その創建については諸伝があり正確なことはわかっていません。義綱弓立と呼ばれていた記録があることから、村上義清の同族執事であった小泉義綱の時代には小泉荘一帯の鎮守として存在していたものと考えられます。天明6年(1786)には当時の天災飢饉を祓う雨乞いの神事を小泉組として行っていることから、古くより小泉荘の祭祀の中心であったとされます。現在の社殿は里宮で、奥社が弓立山頂にあります。里宮は建築様式から総合して江戸時代のものと考えられ、明治6年(1873)神社庁より郷社の格を与えられ、府県社の下、村社の上の社格を持ちました。明治45年(1912)各区にあった8つのお宮を弓﨑神社に合祀することになります。横山区の出浦社伊勢神宮、町小泉区の諏訪社泉神社、和合区の神明社、そして日向区からは若宮八幡宮、飯綱社、金刀比良社、蚕祖社、天白社の合計8社です。いくつかの神社をまとめることで経営的基盤を強化することを目的に明治39年に神社合祀令が政府から発令されたことで、この時期日本中で神社の合祀の動きが広がりました。太平洋戦争末期には戦没者を追悼する慰霊殿が今の第六中学校校庭隅に設けられましたが、昭和22年(1947)弓﨑神社が境内の一部を無償で貸与する形で弓﨑神社に移転されました。その時の土地使用契約書が今も氏子総代の資料に残されています。​郷社として地域の中では高い社格を保有していましたので、昭和前半生まれの方々の中には七五三のお参りとして生島神社より近い弓﨑神社で参拝される方が多かったようです。現在80歳以上の地元の方々からは「昔はね、弓﨑神社で七五三やったんだよ。」というお話を度々お聞きすることがあります。神社としての今の活動は年に3回の祭祀、護符の取りまとめ、初詣などがあり地域の安全と繁栄を祈願する場所であると同時に、地域全体の7割以上の方が初穂料を納める氏子となっており、各区の氏子総代と祭典係がその伝統と慣習を守り続けています。
​令和7年10月  記
※史実に関しては「小県郡史」「小泉村史」川西村のあゆみ」等をもとに正確性を求めておりますが、万全ではないものもあるかもしれません。お気づきの点がありましたらご指摘いただければ幸いです。
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